思い込みは人生を変える。
たまに、というかしょっちゅう、私はエゴに騙されそうになる。
私が寂しいのも、こんなに彼の事について考えて辛い想いをするのも、すべて『彼』のせいなんだと。
彼が愛情表現をしてくれないから。彼が何を考えているか分からないから。私はこんなに彼を求めているのに…
でも、必ずそこで気付く。
どんなにそんな考えに陥って涙を流しても、エゴを見守っている”本当の自分”がちゃんとエゴに言う。
原因は彼にない。自分の心にあるだけ。
エゴがどんなにそういう考えを持っていても構わない、ただそれが彼のせいではなく、自分の心のせいだと気付いているのに、やっぱりエゴに悩まされる。
気付いたからと言って、別に何もしなくていいし、そんなことを考えているエゴがいる、ただそれだけでも良いんだけど、
だからと言って特に行動が変わるわけでもなく、彼を求めて手を伸ばしてしまう。
解決策は色々ある。自分が人生を楽しめばいい。自分が輝けばいい。彼に直接関係なくても、彼の事ばかり考えている必要もなければ、彼に何かをしてあげる必要もない。
でもやっぱり、彼から離れよう離れようとすればするほど、何をするにも彼基準になってしまって、もう私は終わりのない迷路のど真ん中にいるみたい…
彼自身をどうにかしようとするより、自分の中の考えをどうにかする。
彼が愛情表現がないなら、愛情表現を無理矢理させるよりも、愛情表現をしない彼を丸ごと受け入れる、
どうしても受け入れられないならば、別に彼に固執する必要もない。
そうすることで、愛情表現を貰えないだなんて大した問題でもなくなるし、愛情表現が無いことにフォーカスを当てていたのに、愛情表現を求めることをやめた瞬間から、彼の愛情表現をしてくれた瞬間にどんどん気付くことが出来るようになる。
愛情表現の無い彼が好きで、それでも悩むのは…
やっぱ好きだから、何だろうな笑
それ以外に答えがない。でもそればかりで悩んでいてもらちが明かない。
じゃあ何故、愛情表現を必要とするんだろうか。『好き』と言われることによって幸せになるから。
じゃあ何故、『好き』と言ってもらうことによって幸せな気持ちになるのか。
大好きな彼に認められるから。
じゃあ何故大好きな彼に認められることがそんなに嬉しいのか…
自分が自分を認めていないから、外に求めてしまう。
誰かに好きと言われるから、自分は魅力的なんだ、彼に好きと言われているから、私はずっと彼の横に居て良いんだ。
そうなると、彼の気持ちが離れているなと思うようなことが起こると、急に不安になる。あれ、好きじゃなくなっちゃったのかな?エゴがざわざわし始める。
でも、これが自分が自分の魅力を最初から認めていると、自分を認めてくれる人が集まってくる。というか、自分が一緒に居て心地が良いと言う人にフォーカスが当たるようになる。自分を貶すような人が居ても別に気にならない。
彼が自分の事を好きじゃなくなっても、悲しいかもしれないけどそれは仕方ない、ただの現象だと潔く諦め、彼には特に執着しない。
私はエゴを甘やかしてる。
私はエゴという存在に気付いていながらも、エゴという子供の言う事を何でも聞いて、エゴと一緒になって『どうしようね~』なんて言ってる状態。
時には『自分はこういう人間だから…』という殻を破って、思い切り行動して、思い切り砕ける勇気が必要。
恋愛に悩んでいる友達が居たとしたら、アドバイスをしてあげられるのに、
自分の事になるとあーだこーだ悩んでしまうのは『自分を失う』のが怖いから。
誰かに認められていることによって、自分が存在する。
誰かが名前を呼んでくれるから。自分に触れてくれるから。
だから、『彼氏』なんていう存在はエゴにとってとてもありがたい存在。
そもそも、自分がネガティブだとか引っ込み思案だとか、勝手に思い込んでいるだけ。何を基準にして言っているのか。勝手に自分の感情に名前をつけて、善悪を判断しているだけ。
そして、彼に対しても、愛情表現しないと『思い込んでいる』だけ。愛情表現してくれない彼だから、私は悩んでいる。
じゃあ、愛情表現してくれないという思い込みを外せば、おのずと愛情表現してくれない彼に悩んでいる私も存在しなくなる。
エゴはあーだこーだ自分を失わないために、傷付けないために自分をコントロールしてこようとする存在なので、
彼に対して出てくる感情を餌に生きている。
だからおのずと何かに対して不安になるのは仕方の無い事。でも、エゴがそういう風に思っていると気付くだけで良い。
でも突き詰めて考えていくと、愛情表現しないもなにも、ただ単に『愛情表現しない彼』って名前を付けているだけで、
彼自身からしたら、ただただ普通に生きているだけ。
それならもう、『芸能人じゃない私』『辛い物が好きじゃない私』
みたいに何でもありな訳ですよ。笑
私が芸能人じゃないのは周知の事実ですけど、別に『芸能人じゃないよなぁ私』と思って生きているわけじゃない。
もし、辛いのが大好きな彼と出会って、『お前辛いもの好きじゃないから一緒に辛いもの食べに行けないじゃん』と言われて、そこで
自分って辛い物好きじゃなかったんだ、と気付くだけで、
『辛い物が嫌いな私』としては生きていない。言われて初めて気付く。
私が、勝手に彼に『愛情表現しない彼』として自分の中に存在させている。
当然、エゴは愛情表現をして欲しいので、それに対して悩むわけ。
でも、そもそも『愛情表現しない彼』って思っていることがそもそも問題。
愛情表現して欲しい、と思っている自分がいるから、愛情表現しない彼に文句があるわけで、愛情表現は必要ない、と思っていたら、もし愛情表現しない彼と付き合っていても、『愛情表現無い』なんて思わないし、そもそも気づかないかもしれないですよね。
だから、愛情表現のない彼に問題があるわけではなく、愛情表現が欲しい自分がいて、でも目の前には愛情表現をしない彼が居るので、悩んでいる、と。
当たり前のことを言っているんですけど、すべて思い込み。
愛情表現がそもそも何故必要なのかという話。
じゃあもう、自分の見方を変えてみる。現実をどうこうするのではなく、自分の考えを変えてみたらいい。
同じ映画館に居て、映画を見ている観客が、全員同じ感想を言う訳が無い。
皆違う感想を持つかもしれないし、違う見方をしているかもしれない。
『彼氏』という、エゴの餌。
今の『彼氏』をどう見るか。
じゃあそもそも、『彼氏』なんて存在がいなければ、あーだーこーだ悩む必要が無いんですよね。
何を持って彼氏と言うのか、その人は元々私の彼氏として生まれて来たわけでもなければ、証拠を持っている訳でもない。
例え証拠を並べても、証拠にはならない。
まあそもそも論なんですけど笑
『彼氏』だから、『彼氏なんだからこうすべき』みたいな基準が無意識に出てくる。
じゃあもし友達だったら?『彼氏』に持っていた悩みが消える。
じゃあ、自分の中の認識を『彼氏』にしたまま考えを変えるには?
『彼氏』ならこするべきという基準を変えるしかない。
彼自身を動かそうとしても無駄。
今見ている景色の見方を変える。それが無理なら、自分が見る景色を変える。
そもそも、『彼氏』という存在に縛られる必要がない、常に自分は彼の彼女だと思う必要もない。
自分には彼氏がいる、それが重荷なら、ひそかにその重荷を外してしまっても良い。
自分の理想の彼を求めて生きても良い。今の彼に執着する必要がないから。
完全に彼に対する重い想いが消えたら、本当に楽だろうなぁ。悩んでいるのはやっぱり、彼に変わって欲しいという気持ちの比重が大きいから。
私はまだ、自分を好きになりきれない。
景色は自分そのもの。
『愛情表現をしない彼』にいつまでもフォーカスを当てているのは、やはり自分の事を好きじゃないから。
もし自分が本当に好きなら、別の男の人にフォーカスを当てることもあるかもしれない、そもそも彼自身の事を気にしないかもしれない。
執着していると認めた上で、彼をどう見るか。ただ生きている彼を。
別になんでもいいんですよね。『彼氏』っていうのがそもそも思い込みなんだから、『先生』『友達』『いとこ』何でも良いんだよな。
まあでも無理にそう思い込もうとしても難しい。
彼自身をどう思うか、ではなく、『自分』に対する認識を変えてみてもいい。
自分自身は素敵な女性。超モテモテ、誰もが私と付き合いたがっている。
そう思い込んでも間違いではないし、自由。思考は自由。
そう本気で思うことが出来れば、おのずと彼への見方も変わってくる。
これが自愛ってやつかな?
そんな女性が、わざわざ彼に執着する必要がない。
今の彼に執着してるのって、やっぱり自分に自信が無いから。
付き合っている彼って、自分自身に対しての評価、レベルと大して変わらないことが多い。
私ってこういう人を引き寄せちゃうみたいで…っていう人が居ますけど、『そういう人を引き寄せる私』と思い込んでいるから。
もし、超絶美人で素敵な私!と本気で思い込むことが出来るなら、寄ってくる相手、景色もおのずと変わる。
自分自身の見方も変える。これも大事なことですね。
自分自身は誰にでも愛される、どんな男も寄ってくるスーパー女子!
って思いたかったら思えばいい。
だって、そもそも『彼に愛して貰えない私…』なんてのも思い込みなんですから。
思い込みなら自由。どうせならポジティブな思い込みしたいですよね。
自分を騙すと言うのも時には大事。
物凄く長くなっちゃいましたけど、自分への言い聞かせです笑